9月分読書会 活動報告(1)

 みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

 9月分の読書会は、9月30日、思いっきり台風が京都に直撃している中、行いました。

「行いました」とは言っても、読書会の会場は当日使えないことになり、

電車は止まって、実際に参加できる人は、開催場所に自転車で行ける距離に住んでいる自分とあと一人だけでした。

 他の方には、Skypeで参加して頂くことになりましたが、想像以上のスカイプ参加と参加者への連絡の不具合など、問題が重なり、スムーズに読書会を進行することができませんでした。まことに申し訳ございません。

 台風に怒り・恨みをぶつけても仕方がないのですが、大切にしている読書会をあっさりと潰してしまう力には驚かされます。

「これ以上、台風はくるな」と心から願います。

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今回は、「9月分読書会 活動報告(1)」ということで、ゆずとそでさん(@nanamaru_8810)のレジュメと感想文を以下に掲載します。

レジュメ↓

感想文↓

「今回の読書会は、台風で電車が停まってしまったので、Skypeからの参加者の方が多い読書会となった。最初の頃は僕1人だったSkypeでの参加が、いつの間にか当たり前のように選べる選択肢となっていて、何だか少し感慨深かった。
 今回の読書会で印象に残ったのは、「出来るなら100 歳以上生きたいですか?」と問われたことだ。僕は、自分が40歳まで生きれると思っていなかったのでなんだか不意を突かれた気分になった。自分が身を投げ入れて本を読んでいない気がしたからだ。最後にそのように本を読んだのはいつだったろうか?
 そんなことを思っていた後日、読書会をやったという話を某SNSでしたら、ある人から、アカデミックな読書会だと有力な解釈が定まってしまっていて「自由闊達」な読みが実行できないという話を振られた。アカデミックな読書会なるものを知りもしない自分は、この「自由闊達」さの意味を尋ねてみたかったのだけど、なんだか恥ずかしくて躊躇ってしまい、結局尋ねずにやり取りを打ち切った。
 ところで、この読書会は、ある本の内容についての有力な解釈の検討会ではない。かと言って何でもありなわけでもない。今まで参加してきて思うのは、この読書会では、ある本についての有力な解釈を練り上げることが主役にはならないということだ。少なくとも、それが主役になるとしてもかなり稀なことだろう。理由は、この読書会に参加してくれる人は、僕も含めて、ある本についての有力な解釈を得ることだけを目的としているわけでもなければ、それを最優先の目的にしていない人が多いと感じるからだ。(実際にそうであるかは、各人に確認を取ってみないことにはなんとも言えないので、僕がそうであることと、僕にそう感じられることをとりあえずの裏付けとしてほしく思う。)
 しかし、それぞれの置かれた状況から選ばれた本を精確に読もうとすることは、参加者全員に共有されている態度であると感じる。この読書会があからさまにデタラメな読みを許容してしまう会にならないのは、この態度がそれぞれの立っている観点を超えて共有されているからではないだろうか?。」

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 ゆずとそでさん(@nanamaru_8810)は、私が読書会を始めてから、ほぼ毎回参加してくださっている古参メンバーである。いつでもテキストを忠実に読み込み、かつ、参加者がどのような意見をいっても、肯定的な態度をもって接する姿勢は、本当に頼りになる。いつもありがとう。

 レジュメ内で、このブログを見てくださっている方に、ぜひ読んで頂きたいのが「何故本書を推薦したか」である。その一部を以下に引用する。

大学を終えて、結局本を読むことくらいしか自分には残らなかったし、今やってることはその延長線上にある。本を読むのは苦しいが楽しい。できれば、このような苦しいけど楽しいことを通じて自分の問いに取り組みたい。そんな気持ちがある。本職でやってる研究者の皆様方からすればお遊びに過ぎないかもしれないが、そんな遊びが、それに参加する人たちにとってどのような意味を放ち輝き出てくることか。
 この読書会に出会わなければ、僕は読書を通じて他人と直接的に交流をすることは望めなかっただろうなあ。そう思いながら今回推薦する本を見繕ったときに手に取ったのが『人間の条件』であった。

 私はこの箇所に、強く共感する。私も大学での学びで得られたことは、ずば抜けた専門性でも、柔軟な社交性でもなく、「本を読むことの楽しさ」であった。そして、その「楽しさ」を同じく共感できる人間が、地球上のどこかに(大げさだが)存在していると信じて、読書会への参加を少しずつ呼びかけてきた。その結果、私はゆずとそでさんに出会えたし、他の読書会参加者の方にも出会えた。彼等とは、産れた場所も、通っていた学校も、所属する機関も、何一つ共通点を持たない中で、唯一「本を読むことの楽しさ」を知っているという一点で繫がることができた。こんな素晴らしい出会いが、他にあるだろうか。

 読書会で色々な本を取り上げていると、時折「専門的に学んでもいないのに、よく選べましたね」や「誤読することになりますよ」といった否定的な意見を頂くことがある。勿論おっしゃる気持ちも分らないでもないが、専門的な知識をもって本を読むことよりも、全員で本を読んできて意見を交換し、交流を生み出していくことの方が、自分の開いている読書会のコンセプトには合致していると考えている。ゆずとそでさんの発言では「本職でやってる研究者の皆様方からすればお遊びに過ぎないかもしれないが、そんな遊びが、それに参加する人たちにとってどのような意味を放ち輝き出てくることか。」が、私の上記の意見に該当する部分であると思う。この姿勢を、大事にしていきたい。

 レジュメ本文では、「生命」という概念に注目して「労働」を考えた。

 参加者の共感を生んでいた箇所としては、

 だが、私たちを「労働」へと駆り立てる「生活の必要物」は何も肉体に関するものばかりとは限らない。「世界」を前提とした観点から見れば、「世界」の維持・保全のための「労働」がありうるからである。例えば掃除がよい例である。アーレントによれば、「世界」のために払われる努力は、私たちにとって「苦痛」である。「それが情容赦なく反復しなければならないものである」(156頁)ゆえに。

 があげられる。

 私は何度か、会社ビルの清掃員として、労働に従事したことがある。短期バイトの身であったため、一日だけで「清掃員」の職とはおさらばすることになったが、「自分と同じように、明日以降もここで掃除する人がいるのか…」と考えると、頭の奥がツーンと痛くなり、眩暈を覚えた。何度だってビルは汚れていき、そのたびに清掃員が汗を流す。ここに発生する「賃金」を思うとき、何だか空しくなった。

 以上の他にも、レジュメには様々な分析、問題提起がなされいるので、ぜひご覧頂ければと思います。

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以上、「9月分読書会 活動報告(1)」を終ります。

読書会の参加者は常に募集中です。少しでも気になれば、

本ノ猪(@honnoinosisi555)

の方に連絡を頂けると嬉しいです。

ご覧頂きありがとうございました。