7月分読書会 活動報告(2)

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

時が流れるのは早いもので、もう8月になってしまいました。

(齢を重ねるたびに、時間の経過が早くなっていっているように感じます…)

京都は相変わらず蒸し暑く、知り合いのお家では、続く猛暑が要因となってか、蟻が大量発生しているようです。

私の生活には起伏がないため、友人・知人の経験談を耳にすることで、僅かに社会の変化を感じています。(あっという間に8月も終わると思うので、何か行動しなければ…)

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今回は「7月分読書会 活動報告(2)ということで、

読書会常連の[ゆずとそで]さん(@nanamaru_8810)のレジュメと感想文を掲載します。

感想文↓

「今回、僕はおバイトがあったので最後までいることができませんでした。なので、自分の発表とその後の質疑応答の体験を中心とした感想を書きます。
 まず発表ですが、何と言うか、今までの会で一番疾走感のあるものになってしまいました。13分くらいで4000文字と少しを呪文のように、途中からアクセントがちぐはぐになりながら読み上げていくのは、聴いている方にしてみればとても辛かったと思います。自分の上がってしまいがちな性格を差し引いても、準備不足と自制の足りなさが嫌でも自覚されました。今度は無理矢理にでも発表の仕様を整えて来ます。そんな中で覚えているのは、画面の向こうのみんなが頷いてくれていたことです。自分の話が通じているという手応えがあることは、やはり発表者を安心させ、元気づけてくれます。自分はマイナス思考が得意な方の人間(子どものころ車内で独り親の帰りを待っていると、何か黒い人がやって来るみたいなありもしない胸騒ぎに襲われて、戸締まりの確認を行い後部座席の床に身を隠すことをすることが習慣だったりした人間)なのでより一層嬉しかったです。
 次に質疑応答です。皆さんすすっと次々に、自身が疑問に思うことを投げかけてくださり発表者冥利に尽きました。内容は、発表後の熱も冷めやらなかったということもあり、これまた早口(しかも身振り付き)での応答となってしまいましたが。あれで応答となっていたか心配になったので、追加の質問等ある方はいつでもTwitterアカウントの方にとお願いしました。連絡先を教える敷居が低い(ような気がする)のはSNSの利点ですね。
 他方、はぐらかしてしまった場面もあります。レジュメの内容を内在的に超えた質問は、考慮しなければならないことが多いために、その場では肯定とも否定とも答えがたいものです(でもそういう質問を引き出せたことが嬉しい!)。
 実は、今回はその点についてだけは備えをしていて、付録として課題本(三木清『哲学入門』)ではない本からの引用を記したメモを用意していました。これが役に立ちました。このメモは、第3節までを書き終えた後に、びびっと来た本から拾い集めた欠片です。僕自身もその全体としての意味を理解できていない、我田引水してきた文の群れです。これらのお蔭で今回の質問の内、僕がこの「絶対的不幸」についてどう考えているのか?という超弩級の質問に胸をばくばくさせることを未然に防ぐことができました。それどころか、「(何なら一緒に)読んでみませんか?」とダイレクトマーケティングを仕掛けることまでできました(まあこれは美化された記憶で、実際は何かしらに取り憑かれたように語った後、しどろもどろになりながら「ヴェイユレヴィナスがもっと読まれるのは望ましいことです」という旨をこぼしたのでありますが・・・・)。
 とはいえ、何も思うところなしにただはぐらかしたわけではないのです。何と言いますか、ある本や問いを扱うことを何もその読書会1回限りにすることもないよな、ということを自分は思っているのです。この読書会の長所の1つは多様な本を読む機会を得られることだと思いますが、その分、この会単体だけでは読書の経験が散発的になりがちかなとの思いもあります。
 そんな中考えるのは、こういうもっと本が読みたいもしくはもっと議論をしてみたいという思いを持つのであれば、読書会を催してしまえばいいのかなということです。何もこれは、長期間に渡って継続する必要はありません。例えば、今回の読書会の質疑応答の時に「パラダイム」という用語が出てきました。質問を受けた僕は、「そういえばパラダイムってよう分からんままこの年まで生きてきてしまったな」と、頭の片隅で思いました。この瞬間です。この瞬間、僕は「パラダイム」について何かしら学ぶことを目的にした2・3回の読書会を催す動機を得ています。やり方も参加者の視点からではありますが見て知ってはいます。分からないことがあれば主催者やここで知り合った人に相談することもできる環境です。
 本当にこの読書会はよい環境ですよ。僕はここに元気づけられたと言っても過言ではありません。長くなってきましたのでそろそろ強引に占めることにします。
 初めの一歩を踏み出したいと思う画面の前のあなた。意志と時間が許すのであれば本読書会に参加してはみませんか?開催日時は今のところ大体土日のどこかです。Skypeでの参加者はまだあまりいないので増えると(主に僕が)嬉しいです。その後は自分で、自身が気になったことについて読書会を催せばきっと楽しいですよ。
 参加の相談は本ノ猪さんか僕のところへ。なお、僕の休日は「月・木曜日」なのでその辺りが狙い目です。
 宣伝に着地してしまいましたが、要は「この読書会はめちゃ楽しいし、もっと読書会する人が増えると嬉しいなと思った」という話でした。

追記:後日読み返してみたら明らかに混乱して記述している箇所(第3節「生命」にて「倫理」と「良心」の違いについて議論しているところ)を発見してしまいました。書き直した。もし訂正版が欲しい方は[ゆずとそで]までお願い致します

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[ゆずとそで]さんは、始めに、『哲学入門』の内容を吟味していく上で必要になる鍵概念(「客観」「主体」「環境」など)について簡潔な定義を示してくれました。この本が「入門なのか?」という疑問符に晒されてしまう一つの原因になっているのは、この鍵概念の複雑さであり、客観・主観・主体という言葉への理解が曖昧になってくるにつれ、本が子守歌に変貌するという現象が発生する。そういった点で、[ゆずとそで]さんが、簡潔な定義を文字化し、分りやすく説明してくださったことは、『哲学入門』を子守歌化させずに読み続ける上で、大変有意義であったと思います。

レジュメ内容&発表で特に印象深かったのは、「不幸」についての議論。

 2.「不幸」
 本書にてこの用語が登場する箇所は少なく、僅か4箇所(40頁2行目、163頁7行目、200頁2行目、201頁13行目)である。
 注目したいのは、40頁2行目に出てくる「不幸」である。この行を含むパラグラフでは、「常識」の「効用」について語られている。以下に全文を引用する。


 常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現れるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。(40頁)


 ここで「常識」は「社会生活」の前提である。しかし、あるタイミングで「批判的精神」が生じる。だが、この精神が生じると同時に「人間は不幸になり、再び常識がつくられ」ていく。したがって、「批判的精神」とは「不幸」であることを発見してしまう精神でもある。
 さて、「再び常識が作られ」るということは、「不幸」とは「常識」が壊れることである。 

 私達は、共通認識として持っている「常識」に支えられることなしに、通常の生活を送ることはできない。しかし、その「常識」も時間の経過や人々の認識の変化にさらされて、切り崩されることになる。そのときに生じるのが「批判的精神」であり、その精神によって「常識」が改変されることは「不幸」である、と三木は述べているのである。

 読書会の参加者全員で「不幸」について考えていると、ある一つのことに気付いた。それは、哲学が一つの概念として定義しようとしている「不幸」と、私たちが日常生活の中で実感としてもっている「不幸」の間に、決して狭いとはいえない「溝」があるということ。おそらく、その「溝」は、例えばある哲学者が「不幸」というものを考えようとしたとき、彼は自身の他の哲学概念との一貫性を保ちながら「不幸」というものの定義を考えていくことになる。つまり自身の「哲学体系」の中に「不幸」というものを落とし込もうと努力する。一方、一般の人は、自身の「不幸」への考え方が、その他の自分の考え方と一致しているかなどはあまり気にすることはない。またその分、厳密な意味で「不幸」という言葉の定義を考える機会もないだろう。以上の点で、哲学における「不幸」と一般の「不幸」の間には「溝」がある。しかし、この「溝」を確認することが、「哲学」に関心をもつ契機となる。その意味でも、今回の『哲学入門』は有意義であった。

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以上、「7月分読書会 活動報告(2)」を終わります。

ご覧頂きありがとうございました。