2020年度・4月分読書会 活動報告(3)

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

今回は「2020年度・4月分読書会 活動報告(3)」ということで、読書会参加者(螢さん、ニシムーさん)の参加後の感想を掲載したいと思います。

 

■螢さん(@kei__sui)の感想↓

本作は感染症文学として扱われていますが、実際に読んでみると、意外にも「感染症」という語すらあくまで比喩ではないかと思わされ、今回は主に「みえることとみえないこと」「みることとみないこと」に比重を置いて考えることとなりました。
特に発表者の方の、「視覚を奪われることによって逆にみえてくるもの(本質)がある」という言葉から、それは一体なんなのだろうか。ということを考えました。
カミュの『ペスト』などよりもむしろ、オイディプス王の「人は真理を直視出来ない」という言葉や、谷崎『春琴抄』の設定などを想起させられました。
陳腐な言葉かもしれませんが、視覚を奪うことでより鮮明にみえてくるものは人の「心」や「態度」であり、それは普段見えているものよりも美しい場合もあれば、一層醜く汚らしいものでもあると、そういうことなのでしょうか。
また、個人的に興味深かったのは、登場人物「全員」が失明した状態で、一人称で物語を描くことは可能なのかということです。実験的に書いてみるのも面白いかもしれません。
 最期に、今回のコロナウイルスの件も含め、感染症の問題が「戦争」として捉えられるという指摘は、重く受け止めなければならないと感じました。
ウイルスはまさに「テロリスト」のようなもので、自分の人生の中で初めて遭遇する事態です。最近友人達と交わす約束には、必ずといっていいほど「コロナが落ち着いたら」という言葉がつきます。「この戦争が終わったら」という言葉を連想して、不安になる言葉です。今までこれほど平穏な日常を恋しいと思ったことはなく、そういう意味で、自分にとって非日常にしか感じられなかった種類の文学達に近づけるのではないか、と思いました。

(本ノ猪のコメント:螢さん、今回は読書会に参加頂きありがとうございました! 現在『白の闇』は「感染症文学」として光があたっていますが、むしろ「見ること」「目」を中心に据えた作品として、谷崎潤一郎春琴抄』と比較してみたらどうか、という指摘には強く頷けます。次回もぜひご参加ください!)

 

■ニシムーさん(@sn19891217)の感想↓

今回の読書会では目が見えなくなる感染症というのが主題であるが、ボクとしてはウイルスの構造的な意味というところに着眼しました。
 アーキテクチャ環境管理型権力)という概念があり、これは物理的に行為を封じることによって、ルールが強制されるという設計上のシステムのことであるが、コロナウイルスの場合、人と人が直接会いにくい状況が作り出されることによって、殺人事件などの揉め事が減るのではないかとボクは考えている。もっとも人間関係が希薄になることにはデメリットもあるが、人間の五感の内、視覚が奪われるというのは逆にコミュニケーションを重視しなければ生きて行けなくなる状況を強制されるわけで、コロナウイルスとは逆の作用としてあるアーキテクチャかもしれないとボクは考えました。

(本ノ猪のコメント:ニシムーさん、今回は参加いただきありがとうございました! 新型コロナウイルスを一種の「アーキテクチャ」として考えてみるという視点はなかなか刺激的です。)

 

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以上で「2020年度・4月分読書会 活動報告(3)」を終ります。

ご覧いただきありがとうございました。