10月分読書会 活動報告(3)

みなさん、こんにちは、本ノ猪です。

先日、百萬遍知恩寺「秋の古本まつり」が無事終了しました。

今回は全日、お手伝いとして参加したため、あまり古本漁りをする余裕はありませんでしたが、近日中に「秋の古本まつりで購入した本」について、別のブログを書きたいと思っています。ぜひそちらの方もご覧頂ければありがたいです。

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今回は「10月分読書会 活動報告(3)」ということで、

そでさんの読書会参加後報告と、でででさんの課題図書&ブログ読後の感想を、以下に示します。

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そでさん(@nanamaru_8810)の読書会参加後の感想・意見↓

「本感想では、読書会中で本書に向けられた批判に対して応答することを通じ、読書会で本を読むことについて小さな考察を行おうと思う。

1.批判への応答
 今回は通読できず、開始直前までかけて流しつつ飛ばしつつ読んでの参加となった。自分はそれほど多く小説を読むことをしないけれど、それをどのように評価したものかが、毎回おのずと引っかかってくる。おそらく、二十数年生きてくるうちに何度も聞いてきた「この本は面白い/傑作だ/良い本だ/ためになる/感動する/勉強になる」などの言葉に乗せられてしまっているのだろう。
 だから、本書には「要らない言葉が多すぎる」という旨の評価が出てきた時は羨ましく思った。自分は、好意的に読むことを半ば自身に強いているからだ。今回も例外とはならず、この評価からの擁護に回った。
 僕が聞いたかぎりでは、それは、著者が描く本書の語り手である「わたし」の行う情景描写がくどいことの指摘であった。対して自分の行った擁護は、この過剰さには理由があるというものであった。
 それは、胎内という「わたし」が置かれている特異な観点にある。母親のお腹の中に居る胎児である「わたし」は、それにもかかわらず言葉を理解しており、胎内にまで届く刺激(音や栄養)を通じて外界の様子を「想像」している。本書の描写のほとんど全てが彼の視点から見えている(というのはもちろん比喩である)風景を表現したものだ。
 言語を絵の具とし、外界はモデルである。そして彼の心がキャンバスである。彼とこのモデルとは母体によって物理的に遮られているため、向こうからの刺激は母体越しに感受される。よって、彼にとってもっとも身近なのは、自分に生じる感覚(主に聴覚と触覚)およびアルコールなどによって変容を繰り返す「気分」、そして母親の状態である。これらは、彼の心の状態を作り出してもいるという意味で、半ば彼の心そのものであると言える。つまり、彼は、もし自分が外に居たらその瞳に映ったであろう風景を、言葉を用いて脳裏に描いている。
 したがって、彼が関心を向ける事柄の順序は次のようになるだろう。すなわち①自分自身のこと(感覚や「気分」、自分だけの関心事)、②母親に関係すること(母体の状態、母親の関心事と彼に思われる事柄など)、③それ以外である。また、後述するように、これらは彼の想像を形づくるカテゴリーでもある。
 彼には外界の状況を視界に収めることが叶わず、加えて世間の経験も欠けているのだから、③に分類される事柄の間の順序は、私たちの常識から推し量ろうとすれば混沌として見えることだろう。おそらく、このことが次のような少しばかり過剰な描写が成立する理由なのではないだろうか。「悪よりも古く、金剛石よりも硬い、全長九インチ野(くさび形をした歴史的なパルメザンチーズ」(51頁)。この塩分の固まりに彼の関心が向くのは母親がこれを欲しているからであろう。もしそうでなければ、これは③に分類されるはずだからである。彼の関心は多分に母親に依存している。
 ここで「悪」や「金剛石」など③に分類されるであろう他の事柄が一緒にイメージされてくるのは、③から「パルメザンチーズ」を取り出してくる過程で、これらが「古いもの」や「硬いもの」という共通項に絡みついていたがために芋づる式に連想されてきているのではないか。彼は、パルメザンチーズという物を見たことも食べたこともなく、言葉でしか知らない。それゆえに、「パルメザンチーズ」の日常的な意味を判明に認識して取り出すというよりは、何らかの秩序に基づいて無意識下に配列されている知識の連なりから輪郭の不鮮明な「パルメザンチーズ」(という語の意味)を、それに関連する非日常的な知識(「悪」や「金剛石」)もろとも強引にもぎ取ってきているのではないだろうか。ただし、もちろん純粋な③は思い浮かべられることはないはずだから、想像された③に分類される事柄は、多少なりとも①か②なのであろう。だからこの連想は無限には進行せずにどこかで打ち切られることになり、日常からすれば異形のパルメザンチーズが想像されることになる。つまり、実質①と②とが、世間を生きたことのない彼の関心や連想の順序を織り成す縦糸と横糸なのである。
 以上、本書の情景描写の過剰さは、(1)語り手である「わたし」は外界(とそこにある諸物)を見たことがなく、その日常的な相貌が明晰判明でないこと、(2)「わたし」の関心は①と②によって秩序づけられており、この意味では本書の描写は彼にとっては日常的であるイメージを表現していることを理由としていると論述してきた。私は、以上のような観点から、「要らない言葉が多すぎる」として本書を一刀両断するような評価は不当であると考える。

2.読書会で本を読むこと
 それにしても、なぜ私は「要らない言葉が多過ぎる」という評価を不当だと感じているのであろうか。おそらくその理由は、問題となっているような評価では、『憂鬱な10か月』というこの本自体を読んだとは言えないからであろう。以下、いくつかの部分に分けてこのような評価の限界を簡潔に説明する。
 第一に、このような評価を下すのであれば、該当する箇所が一箇所は提示されて然るべきである。しかし、それは示されなかった。具体的な例示がなければ、その評価が行っている理解(=読み方)を共有できる可能性が狭まらざるを得ない。
 第二に、「多すぎる」と評価するにあたっての基準が示されなかった。例えば、何と比較してどのような描写が「多すぎる」のかを知ることができなければ、こちらは相手の考えていることに近づくことができない。
 第三に、このような評価を通じて果たして何が言いたかった・考えたかったのかが明確には語られなかった。私は、今まで本読書会に参加してきた経験と本読書会のブログに記録されているようなレジュメの内容や感想文を通して、ここは課題に設定された本について「面白い/面白くない」という評価を共有することを第一義とする場ではないと考えている。そうではなくて、その段階に止まらずに、どのような箇所がそうなのか、あるいはその本がそう感じられるのはなぜなのだろうかということを「問い」として共有することの方を第一義としているのがこの読書会なのではないだろうか。つまり、「面白い/面白くない」だけに止まってしまうと、課題本への考察を通じての「問い」の共有をすることができない。
 加えて、「問い」の共有は、課題本それ自体についてか、あるいはその「問い」に取り組む私たち自身について考えを起こす機会を与えてくれる。それはまた、課題本となった本が参加者一人一人にとって意味あるものとなっていく過程である。読書会は、一冊の本に個々別々の意味が付与されていくことで、読者と本が個性を獲得していく場所である。

 

でででさん(@TTD_Dede)の課題図書&ブログ読後の感想↓

「(本ノ猪のレジュメについて)凡庸な感想で申し訳ないんですがとてもいい文章を書かれるんですね。自分の引っかかったところやほかの方に問いたいところを読みやすい形で文章にできているのがすごいなと思いました。
 内容についてなんですが、自分も猪さんの挙げられた出生前の胎児の自殺について思うところがあったのでそれをわかりやすい形で問にされてたのが個人的によかったです。自分は作中で主人公が目的達成のために自殺を選んだことに対して、死へのためらいが人生における蓄積の喪失と可能性の唾棄へのためらいであるとすれば成人に比してどちらの点においても死が目的達成のための選択肢として選びやすいものになるのかなどと一人で考えていました。対して猪さんは可能性の点について作品に沿って出生後の人生の(確定的な)悲惨さを条件づけて考えていたのがじぶんになかったものだなあと思いました。
 あとはこうは書きましたが読み物としてとても楽しかったのが良かったです。知的な胎児が独白し続けるスタイルが個人的にツボで小説の楽しさを改めて感じられました。」

⇒でででさんには、村上春樹アンダーグラウンド』を課題図書とした読書会(8月分)を開いた際に参加して頂きました。自分としては頑張って作ったレジュメに対して、初めて褒めて下さる方がでてきて大変嬉しく思っています。

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以上、「10月分読書会 活動報告(3)」を終ります。

ご覧頂きありがとうございました。