12月分読書会について
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
とうとう12月がすぐ近くにまで迫ってきました。
みなさんは何か計画はたてておられるでしょうか?
帰郷する、○○に出掛ける、クリスマスパーティーを開催する……。
色々なバリエーションがあると思います。
私は…まあいろいろなことをしようとは思っていますが、実行に移せるかどうかはまだわかりません。
ただ2点だけ、絶対にしようと思っていることがあります。
一つは、「本を読むこと」です。
別にこれはあえて言うことではありませんね。1月~11月と同じように、楽しく本を読んでいきたいと思います。
もう一つは、これも毎月のことですが「読書会を開催すること」です。
固定メンバー、並びに新規メンバーからのご意見を参照しながら、今後もよりよい読書会にしていければなと考えています。
読書会参加者は常時募集中です!
ぜひ「本ノ猪(@honnoinosisi555)」までご連絡をお願いします!
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それでは以下より、12月分読書会についてお知らせします。
【12月分読書会】
・課題図書:プリーモ・レーヴィ著、竹山博英訳『改訂完全版 アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』(朝日新聞出版、2017年)⇒https://amzn.to/2KHrPu6
・当日までに“最低限”読んでくる箇所:
「序」の冒頭(P5)から「十日間の物語」の末尾(P225)まで
*「若者たちに」「若い読者に答える」「訳者解説」には、『これが人間か』が書かれるに至る過程や背景が詳しく示されているため、読むことをお薦めします。
・開催日:12月(未定)
・開催場所:京都某所
・参加方法:直接参加orSkype参加(映像or音声のみ)
(詳しくはTwitterDMでご連絡ください! 参加者は常に募集中です!)
【改訂完全版】アウシュヴィッツは終わらない これが人間か (朝日選書)
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以上で「12月分読書会について」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
11月分読書会 活動報告(3)
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
11月も残りわずかとなりました。
何だか今年は「秋」をあまり感じることができませんでした。
紅葉を見に少しだけ出掛けたくらいです。
京都の紅葉は、なかなか良いですよ。
みなさんは「秋」を感じることができたでしょうか。
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今回は、「11月分読書会 活動報告(3)」ということで、
拙者(本ノ猪)のレジュメと、今回は所用で不参加でしたがレジュメを提出してくださった秋山白さん(@akiyamahaku)のレジュメを、以下に掲載したいと思います。
次に、拙者の感想文を示します。
レジュメ(本ノ猪)↓
レジュメ(秋山白)↓
感想文(本ノ猪)↓
「今月(11月)も無事に、読書会を終えることができた。毎度言っていることではあるが、読書会を開催する上で協力してくださった皆様には、感謝してもしきれない思いがある。本当にありがとうございます。
今回の読書会は、これまでの読書会の中でSkype参加者が最多であった。大変喜ばしいことではあるのだが、その分課題も浮き彫りとなる。
まず、一番強く感じたことは、「表情が読めない」ということである。Skypeの参加方法としては、①映像参加、②音声参加の二つがある。参加回数が多くなったり、実際に会ったりしたことのある人は、自然と①が多くなるのだが、それ以外の人だと②を選択する人が少なくない。もちろん、顔を見せるのに抵抗感がある人もいるだろうが、自分自身がレジュメ発表をしているとき、「きちんと自分の話が伝わっているかな」と思っても、表情を読めないことから、判断する基準が少なくなるということにつながってしまうという現状がある。
よって、参加者の方にご協力願いたいのは、以下の二点についてです。
A.①映像参加でも構わないという人は、ぜひ映像での参加をお願いしたいです。
B.もしも①映像参加を避けたいという方は、誰かがレジュメ発表をされている際、適度に相槌をうったり、分らないことがあれば発表の途中であっても質問するなどのリアクションをしてほしいです。
以上が「Skype参加者へのご協力のお願い」です。
よろしくお願いします。」
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以上、「11月分読書会 活動報告(3)」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
11月分読書会 活動報告(2)
寒い日が続いています。
毛布にくるまりながらブログ書いてます、本ノ猪です。
突然ですが、「本ノ猪」という名前、どのように“読んで”いるでしょうか。
最近、Twitter上でツイートを拝見しているある方から、
「ずっと、“ほんのい”と読んでました。すみません」
という言葉をかけられた。
特に正しい読みというのは存在しませんが、
一応自分では「ほんのいのしし」と読んでいる。
Twitterで知り合い、実際に会ってよく話す仲間からは、
「いのししさん」や「いのしし」と呼ばれている。
まったく違和感はない。
みなさんも、「いのししさん」と呼んでください( ´∀` )
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今回は「11月分読書会 活動報告(2)」ということで、
そでさん(@nanamaru_8810)のレジュメと感想文を、以下に掲載します。
レジュメ↓
感想文↓
「小説『異邦人』は、多様な解釈を許容しうる作品であると思います。今回の読者会では殊更に、各参加者は、各様の仕方でこの作品を経験したことと思います。
僕は、三野博司『カミュ『異邦人』を読む ── その謎と魅力 ──』彩流社、2002年(以下、「三野(2002)」と略記)を主な支えとしつつ読みました。その中で、本作品を舞台であるアルジェリアに注目し、実質フランスの植民地であった期間があるという実際の歴史を踏まえて評価しようとする試みが紹介されており(大変申し訳ありません。本を図書館に返却してしまい該当箇所を挙げることができません)、感銘を受けました。テクストを通してある対象へと近づいていくという行為が存在することが、腑に落ちたからです。
この感銘は読書会での議論を通じてより強まりました。そのような行為を自分でも行ったり行わなかったりできるようになることを目標にして、これからも励んでいきます。
ところで、今回自覚できたことがもう一つあります。自分のものの見方についてです。
僕は、秋山さんのレジュメのように作者であるカミュの意図に着目することには考えが及びませんでした。そのような見方より、作品自体の構造の把握の方が優先的に考えに上ってきます。どうやら、僕のものの見方は、作者の意図と作品自体とを切り離し、後者を主、前者を従として捉えがちなようです。
この自覚は、今回上記のような感銘を受け、読書会での議論を通じてそれが更に強まった理由を説明してくれます。その説明は次のようになるでしょう。僕のものの見方は、作品を取り囲む外部へ視線を向けない傾向があり、今までそのことに無自覚でありました。ところが、今回三野(2002)の該当箇所、秋山さんのレジュメ等を読んだり聴いたりしたこと、またそれらを素材として議論したことによって、それは言わば場にそぐわないものとして、僕の視界に浮かび上がってきたのでしょう。
僕が採りがちなものの見方は、実在する事柄を見落としがちなものの見方であると言えます。今回、僕は自身のものの見方に危機感を覚えました。そのような行為を自分でも行ったり行わなかったりできるようになることを目標に据えたのはこの危機感からです。少しばかり飛躍を交えて説明すると、僕の部屋が散らっているのも、日々を計画的に過ごすことができなくてひもじい思いをしたことがあるのも、自身がこのようなものの見方に偏りがちになってしまっていることに根差しているように思われます。一言で言えば、読書をすることと生活することが乖離してしまっているのです。
今はまだ飢えずに済んでいますが、このままでは、そう遠くない未来に、僕は死刑を申し渡されて、この生活からおさらばすることになるでしょう。それを食い止める眼を身に着けなければなりません。
最後に、レジュメでは伝えきれなかったことも含めて、レジュメで考えたかったことについて少しだけ書いて感想を閉じることにします。
このレジュメで考えたかったのは、『異邦人』という小説が、 ➀ 1つのとある「事件」についての複数の解釈が闘争する様を描いていること。 ②(1) この闘争を描いている視点自体がこの「事件」についての解釈を提示していること。 ②(2)視点とは誰の視点なのか?カミュか、ムルソーか、それ以外の登場事物か、もしくはそれらの混合か。 ③ とはいえ、➀や②のように考えていくと、この小説を読む私たち自身の視点もまた「事件」を「神話」として解釈し、自身の「世界観」を説明しようとするものとして例外ではないこと。つまり、視点は小説の内にも外にも複数存在すること。言いかえれば、各自がそのような「特権」を持っていること、このことを、小説『異邦人』は読者に対して示してくれるような構造を持っているように僕は考えています。③が特に強調したかった部分です。」
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自分があえて付け加えることはありません。是非、上記のレジュメと感想文をご覧ください(特に「不条理」と「神話」に関する記述は、カミュ『異邦人』の読書会というフィールドを離れても大変有意義です)。
*そでさんが参考にしたカミュ・『異邦人』関連書籍↓
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以上、「11月分読書会 活動報告(2)」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
11月分読書会 活動報告(1)
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
最近、積読と向き合うために、古書店に足を運ばないようにしています。
なぜなら、古書店に行けば、必ず一冊以上本を購入することになり、また積読が増えるからです(笑)。
毎回、古書店を訪ねるたびに、運命の本と出会う。そして、その本を家庭に迎えると、嬉しさと後悔の波が押し寄せてくる。この繰り返しです。
古書店に行かないというのは、私にとって苦行ですが、何とか頑張っていきたいと思います。頑張って本を読むというのも、なんだか変な感じですが。
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今回は「11月分読書会 活動報告(1)」ということで、
K.さん(@kei__sui)のレジュメと感想文を掲載します。
感想↓
「今回の読書会は作品を読む為の先行文献を集めてくださったり、読み方を考えている方がいて、やはりすごいなあと感じました。小説は様々な読みが可能なので、まずは予備知識を余り入れずに読むことも大事だと思います。二回読むのが良いと言っている方の意見に深く同感致しました。ありがとうございました。」
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K.さんは、今回、カミュ『異邦人』を推薦してくださいました。
K.さんは、『異邦人』の主人公・ムルソーを、一人の「無神論者」と位置づけ、『異邦人』を「無神論者とキリスト教信者との対立の物語」だと捉えています。
キリスト教(多数派)の考えとしては
①母の死には涙を流して悲しむべきである。
②母の死の直後に、女と喜劇映画を観たり遊ぶべきではない。
③ムルソーは精神的に母親を殺害した男である。
④ムルソーは過去を後悔し、神や神父に原罪の赦しを請うべきである。
①「なんびとたりとも、ママンのことを泣く権利はない。(p127)」
②自分が殺害したのは母親ではなくアラビア人ただ一人であり、その罪は原罪などでは ない。
③神を信じておらず、赦しを請う気はない。
神への信仰さえ示せば、死から逃れられた可能性もあるのに、それを拒んだムルソーの生き方には、一つの信念がある。その信念に「無神論」という言葉を添えたのが、K.さんの主張である。
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以上で「11月分読書会 活動報告(1)」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
11月分読書会について
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
京都は11月ということもあり、徐々に寒くなってきています。
汗っかきな私は、夏よりも冬の方が好きなのですが、身体が冷えてくると、心の方も冷えてきて、言葉にはできない「淋しさ」に全身が包まれます。
今年の夏は、サウナの中を歩いているような日々でしたので、そこから解放されて過ごせると考えれば、少しは気が楽になるかもしれませんね。
私はこの時期になると、色々な人から相談を受けるようになります(笑)。自分自身、人にアドバイスができるほどの成功者ではありませんので、若干後ろめたさを感じながら相談に乗るのですが、つい自分のことのように熱くなってしまうので、相手にはご迷惑をかけてるなと反省しています。
自分に対する相談事で一番多いのは、「学業」についてのものです。
「家庭的に余裕がないから、学業の継続は断念した方がいいか?」という、結局は「お金」が中心点となる現状に、毎回心苦しい思いをしています。どうにか打開策を考えていきたいものです。友人、後輩、知人、そして何より自分のためにも。
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今回は「11月分読書会について」ということで、題の通り、11月分読書会の簡単な概要を以下に示します。
【11月分読書会について】
・課題図書:カミュ『異邦人』(⇒https://amzn.to/2QGrqdh)
・開催日:11月下旬某日の14時~
・参加方法:直接参加(開催地に足を運ぶ)or Skype参加(声のみ可)
*聞くだけの参加も受け付けています(詳しくは、Twitter:@honnoinosisi555にお声掛け下さい)
・その他重要事項:課題図書は、読書会メンバーの推薦及び投票により選ばれます。自身の推薦した/投票した書籍が課題図書に選ばれた場合、以下の項目を示した簡単なレジュメを作って頂きます。
○なぜこの本を選んだのか。
○読後の感想(ただ単に「面白くない」「読みにくい」はNG。ポジティブな読みに徹する。)
○読後の疑問点。
*カミュ『異邦人』関連書籍↓
・晴れた日には『異邦人』を読もう―アルベール・カミュと「やさしい無関心」―
・アルベール=カミュ (Century Books―人と思想)
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以上、「11月分読書会について」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
10月分読書会 活動報告(3)
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
先日、百萬遍知恩寺「秋の古本まつり」が無事終了しました。
今回は全日、お手伝いとして参加したため、あまり古本漁りをする余裕はありませんでしたが、近日中に「秋の古本まつりで購入した本」について、別のブログを書きたいと思っています。ぜひそちらの方もご覧頂ければありがたいです。
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今回は「10月分読書会 活動報告(3)」ということで、
そでさんの読書会参加後報告と、でででさんの課題図書&ブログ読後の感想を、以下に示します。
そでさん(@nanamaru_8810)の読書会参加後の感想・意見↓
「本感想では、読書会中で本書に向けられた批判に対して応答することを通じ、読書会で本を読むことについて小さな考察を行おうと思う。
1.批判への応答
今回は通読できず、開始直前までかけて流しつつ飛ばしつつ読んでの参加となった。自分はそれほど多く小説を読むことをしないけれど、それをどのように評価したものかが、毎回おのずと引っかかってくる。おそらく、二十数年生きてくるうちに何度も聞いてきた「この本は面白い/傑作だ/良い本だ/ためになる/感動する/勉強になる」などの言葉に乗せられてしまっているのだろう。
だから、本書には「要らない言葉が多すぎる」という旨の評価が出てきた時は羨ましく思った。自分は、好意的に読むことを半ば自身に強いているからだ。今回も例外とはならず、この評価からの擁護に回った。
僕が聞いたかぎりでは、それは、著者が描く本書の語り手である「わたし」の行う情景描写がくどいことの指摘であった。対して自分の行った擁護は、この過剰さには理由があるというものであった。
それは、胎内という「わたし」が置かれている特異な観点にある。母親のお腹の中に居る胎児である「わたし」は、それにもかかわらず言葉を理解しており、胎内にまで届く刺激(音や栄養)を通じて外界の様子を「想像」している。本書の描写のほとんど全てが彼の視点から見えている(というのはもちろん比喩である)風景を表現したものだ。
言語を絵の具とし、外界はモデルである。そして彼の心がキャンバスである。彼とこのモデルとは母体によって物理的に遮られているため、向こうからの刺激は母体越しに感受される。よって、彼にとってもっとも身近なのは、自分に生じる感覚(主に聴覚と触覚)およびアルコールなどによって変容を繰り返す「気分」、そして母親の状態である。これらは、彼の心の状態を作り出してもいるという意味で、半ば彼の心そのものであると言える。つまり、彼は、もし自分が外に居たらその瞳に映ったであろう風景を、言葉を用いて脳裏に描いている。
したがって、彼が関心を向ける事柄の順序は次のようになるだろう。すなわち①自分自身のこと(感覚や「気分」、自分だけの関心事)、②母親に関係すること(母体の状態、母親の関心事と彼に思われる事柄など)、③それ以外である。また、後述するように、これらは彼の想像を形づくるカテゴリーでもある。
彼には外界の状況を視界に収めることが叶わず、加えて世間の経験も欠けているのだから、③に分類される事柄の間の順序は、私たちの常識から推し量ろうとすれば混沌として見えることだろう。おそらく、このことが次のような少しばかり過剰な描写が成立する理由なのではないだろうか。「悪よりも古く、金剛石よりも硬い、全長九インチ野(くさび形をした歴史的なパルメザンチーズ」(51頁)。この塩分の固まりに彼の関心が向くのは母親がこれを欲しているからであろう。もしそうでなければ、これは③に分類されるはずだからである。彼の関心は多分に母親に依存している。
ここで「悪」や「金剛石」など③に分類されるであろう他の事柄が一緒にイメージされてくるのは、③から「パルメザンチーズ」を取り出してくる過程で、これらが「古いもの」や「硬いもの」という共通項に絡みついていたがために芋づる式に連想されてきているのではないか。彼は、パルメザンチーズという物を見たことも食べたこともなく、言葉でしか知らない。それゆえに、「パルメザンチーズ」の日常的な意味を判明に認識して取り出すというよりは、何らかの秩序に基づいて無意識下に配列されている知識の連なりから輪郭の不鮮明な「パルメザンチーズ」(という語の意味)を、それに関連する非日常的な知識(「悪」や「金剛石」)もろとも強引にもぎ取ってきているのではないだろうか。ただし、もちろん純粋な③は思い浮かべられることはないはずだから、想像された③に分類される事柄は、多少なりとも①か②なのであろう。だからこの連想は無限には進行せずにどこかで打ち切られることになり、日常からすれば異形のパルメザンチーズが想像されることになる。つまり、実質①と②とが、世間を生きたことのない彼の関心や連想の順序を織り成す縦糸と横糸なのである。
以上、本書の情景描写の過剰さは、(1)語り手である「わたし」は外界(とそこにある諸物)を見たことがなく、その日常的な相貌が明晰判明でないこと、(2)「わたし」の関心は①と②によって秩序づけられており、この意味では本書の描写は彼にとっては日常的であるイメージを表現していることを理由としていると論述してきた。私は、以上のような観点から、「要らない言葉が多すぎる」として本書を一刀両断するような評価は不当であると考える。
2.読書会で本を読むこと
それにしても、なぜ私は「要らない言葉が多過ぎる」という評価を不当だと感じているのであろうか。おそらくその理由は、問題となっているような評価では、『憂鬱な10か月』というこの本自体を読んだとは言えないからであろう。以下、いくつかの部分に分けてこのような評価の限界を簡潔に説明する。
第一に、このような評価を下すのであれば、該当する箇所が一箇所は提示されて然るべきである。しかし、それは示されなかった。具体的な例示がなければ、その評価が行っている理解(=読み方)を共有できる可能性が狭まらざるを得ない。
第二に、「多すぎる」と評価するにあたっての基準が示されなかった。例えば、何と比較してどのような描写が「多すぎる」のかを知ることができなければ、こちらは相手の考えていることに近づくことができない。
第三に、このような評価を通じて果たして何が言いたかった・考えたかったのかが明確には語られなかった。私は、今まで本読書会に参加してきた経験と本読書会のブログに記録されているようなレジュメの内容や感想文を通して、ここは課題に設定された本について「面白い/面白くない」という評価を共有することを第一義とする場ではないと考えている。そうではなくて、その段階に止まらずに、どのような箇所がそうなのか、あるいはその本がそう感じられるのはなぜなのだろうかということを「問い」として共有することの方を第一義としているのがこの読書会なのではないだろうか。つまり、「面白い/面白くない」だけに止まってしまうと、課題本への考察を通じての「問い」の共有をすることができない。
加えて、「問い」の共有は、課題本それ自体についてか、あるいはその「問い」に取り組む私たち自身について考えを起こす機会を与えてくれる。それはまた、課題本となった本が参加者一人一人にとって意味あるものとなっていく過程である。読書会は、一冊の本に個々別々の意味が付与されていくことで、読者と本が個性を獲得していく場所である。
でででさん(@TTD_Dede)の課題図書&ブログ読後の感想↓
「(本ノ猪のレジュメについて)凡庸な感想で申し訳ないんですがとてもいい文章を書かれるんですね。自分の引っかかったところやほかの方に問いたいところを読みやすい形で文章にできているのがすごいなと思いました。
内容についてなんですが、自分も猪さんの挙げられた出生前の胎児の自殺について思うところがあったのでそれをわかりやすい形で問にされてたのが個人的によかったです。自分は作中で主人公が目的達成のために自殺を選んだことに対して、死へのためらいが人生における蓄積の喪失と可能性の唾棄へのためらいであるとすれば成人に比してどちらの点においても死が目的達成のための選択肢として選びやすいものになるのかなどと一人で考えていました。対して猪さんは可能性の点について作品に沿って出生後の人生の(確定的な)悲惨さを条件づけて考えていたのがじぶんになかったものだなあと思いました。
あとはこうは書きましたが読み物としてとても楽しかったのが良かったです。知的な胎児が独白し続けるスタイルが個人的にツボで小説の楽しさを改めて感じられました。」
⇒でででさんには、村上春樹『アンダーグラウンド』を課題図書とした読書会(8月分)を開いた際に参加して頂きました。自分としては頑張って作ったレジュメに対して、初めて褒めて下さる方がでてきて大変嬉しく思っています。
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以上、「10月分読書会 活動報告(3)」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。
10月分読書会 活動報告(2)
みなさん、こんにちは、本ノ猪です。
私は、定期のバイトとともに、不定期の短期労働をしているのですが、その帰り道に本を読んだり、音楽を聴いたりするのが好きです。
本を読むのは、主に帰りが電車やバスなどの交通機関を使う場合に限られ、歩いて帰る時には、二宮金次郎のように歩き読書をするわけにはいかないので、iPodを片手に音楽を聴きます。
帰り道は、そのほとんどがビルとビルの間の路地を歩き、幾つかのコンビニを横目に家路に着きます。そうすると自然と、「この風景にあう曲は何だろう」と探究欲が湧いてきます。
最近発見して、短期労働の帰り道にいつも聴いているのは、寺尾紗穂さんの「幼い二人」という曲(詳細は⇒https://amzn.to/2OSvn1K)。寺尾さんは、先日(10月14日)、『彗星の孤独』(スタンド・ブックス、2018、https://amzn.to/2SiLIuV)というエッセイ集を出され、帰り道の電車の中で楽しませて頂きました。
ぜひみなさんも、寺尾さんの曲と文章に触れてみてください。
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今回は「10月分読書会 活動報告(2)」ということで、秋山白さん(@akiyamahaku)のレジュメ&感想文を、以下に掲載したいと思います。
レジュメ↓
感想文↓
「今回読書会では、海外小説を初めて取り扱うということもあり、皆さんは翻訳特有の文章について指摘していた。自分は小説畑の人間なのできにもとめませんでしたが、翻訳小説を読みなれない人にとっては新鮮な文章に写るものだと思いました。」
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秋山白さんは、大学で民俗学を専攻し、小説家を目指している方で、結構西洋文学を読んでいる友人です。
今回も参加者の中で、きっちりと本を読了し、疑問点を中心にレジュメを纏めてくださいました。
レジュメの注目すべき点としては、小説家を目指していることもあり(感想文にもあるように)、「こういう風な設定に変えたら…」という指摘があった。特に「双子設定や人工授精の場合」はどうだろうか、という主張には、考えさせられる所があった。今回の『憂鬱な10か月』は、赤ちゃんが母親の胎内で一人頭を回転させ続ける話であったため、「もう一人赤ちゃんがいたら…」という想像を巡らすことは、大変楽しかったです。
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以上、「10月分読書会 活動報告(2)」を終ります。
ご覧頂きありがとうございました。